Masuk視線が、すべて神崎怜に集まる。
白に満ちた大聖堂の中で、彼の黒いスーツだけが異質に際立っていた。
彼は動かない。
何も言わない。
ただ、冷たい瞳で血の気を失った私を見下ろしている。
ざわめきが、徐々に大きくなっていく。
「やはり……」
「最初からおかしかったのよ」
「神崎家に、あんな女が……」
非難の声が、白い空間を冷たく凍てつかせた。
(……まさか)
胸の奥が、冷たく軋む。
これが、神崎怜の望んだ光景だったのだろうか。
私を神崎家から排除するために?
最初から、この結婚式そのものを壊すつもりだったの?
でも、どうして……
そんなことをすれば、神崎家の名声にも傷がつくはずなのに。
分からない。
この人が、何を考えているのか。
「一条凛様」
蘇我美玲の声が、静かに響いた。
「あなたは本当に、神崎家に嫁ぐおつもりですか?」
私は顔を上げた。
指先が小さく震え、ブーケにその震えが伝わっていく。
喉がからからに渇いて、声が出そうにない。
透き通るように白い頰が、冷たい汗で濡れている。
それでも、ここで倒れたら、すべてが無駄になる。
私はただの道具。
最後まで、その役目を果たさなければ。
「……私は——」
微かな声を振り絞った瞬間。
パンッ——!
乾いた銃声が、大聖堂に響き渡った。
左肩に、灼熱の痛みが突き刺さる。
焼けるような熱が一気に広がり、息が詰まった。
視界が激しく揺れ、純白のドレスに鮮血が弾けるように広がっていく。
「……っ」
痛みと衝撃で、体がよろめいた。
ベールの繊細なレースが、みるみる赤く染まっていく。
長い黒髪が脂汗に濡れて頰に張りつく。
会場は一瞬で混沌と化した。
「撃たれた!?」
「誰が!?」
「まさか——」
悲鳴と混乱が、聖エレナ大聖堂を飲み込んだ。
その中で、神崎怜だけが微動だにしなかった。
私は崩れ落ちながら、ぼんやりと彼の姿を見つめていた。
(……どうして)
白い光が、ゆっくりと遠ざかっていく。
——私は、切り捨てられた。
怜の低い声が、静まり返った大聖堂に落ちた。
「……お前を壊すのが、俺じゃなければよかった」
「佛跳牆はスープ壺に入っているんだな」次郎が楽しげに言うと、店員が丁寧に説明した。「はい、フカヒレ、アワビ、希少なキノコ類などを3日間煮込んでおります」英絵が優雅に微笑んだ。「滋養にも効果があると言われていますの。怜さんのお疲れも癒えると良いのですけど」「お気遣い痛み入ります」怜は穏やかに応じた。だが…美玲は静かに怜を見つめていた。(怜さんはやはり、どこか上の空だわ)英絵が話題を変えた。「怜さん、ご趣味は?」「最近はゴルフを少々」次郎が明るく笑った。「なんだ、サッカーはもうやってないのか?昔、兄貴とやっていただろ?」「はは、いつの話ですか。」美玲の瞳が、わずかに輝いた。(怜さんが、笑った……!)「父に付き合ってもらっていたのは20年くらい前ですよ」それは、太陽の光を集めたような、場が華やぐ笑顔だった。英絵が興味深そうに相槌を打つ。「まあ、蓮さんが親子でサッカーを!」次郎はグラスを傾けながら、懐かしそうに話し始めた。「すみません、これは私が好きな話なんですけどね、兄も私も、親に遊んでもらったことなんて無いんですよ。 なのに、兄貴ときたら、子供ができたら大真面目に言うんですよ『……なあ、次郎。父親というのは、休日に子供と遊んだりするのか?』って。 だから『キャッチボールとかするらしいよ』って言ったら、張り切って野球のグローブとボール買っちゃって。 家に帰って、怜を誘おうとしたら、怜はサッカーに夢中だったっていう」美玲がくすっと笑った。「ふふふ、そんなことが……」(へえ、そうだったのか)怜も知らない話だった。確かに、養父である蓮とサッカーを始めたのは、そんな流れだったかもしれない。七歳で孤児として引き取られ、広い屋敷で過ごす時間の多くを、1人でボールと遊んでいた。(ふ。あの人らしい——放っておけない人なんだな)怜はスッと口に付いたスープを拭った。次郎は少し斜に構えて言う。「本当に。兄貴はちょっと天然なんだよ。 結局、グローブはお蔵入りして、親子でサッカーするようになったんだけど『怜はサッカー好きだったんだよ』って自慢気に言うからさ。 『お、じゃあ、オレも今度相手になるぜ!』って言ったら『久しぶりだな!昔はよくやったよな!』って。 なんでオッサン2人でサッカーやるんだよ。怜とサッカーやるっていう話
週末。神崎怜は、政財界の要人たちが密かに集う会員制中華料理店へ足を踏み入れた。黒檀の扉の向こうには、翡翠色の器と胡蝶蘭が静かに飾られている。「次郎叔父さん、今日はどういう用事で——」見晴らしの良い個室にいたのはーー蘇我美玲とその伯母であった。「蘇我君?」怜が尋ねると、次郎はにこやかに笑った。「英絵さん、甥の怜です。怜、こちらは一郎さんのお姉さまの英絵さんだ。学生時代からのテニス仲間でね。お前が危なっかしいからと一席設けてくださったんだ」一郎というのは、美玲の父親で、雲城市の市長である。蘇我家はこの街の名士であった。英絵は上品に怜に微笑んだ。「お噂はかねがね」「はは。良い噂もあると良いのですが」「姪の美玲です。神崎財閥に出仕しておりますでしょう?」美玲が控えめに頭を下げた。「いつもお世話になっております」「本当に優秀な女性だ。なあ、怜」「はい。心強い限りです」英絵は優雅に笑った。「ほほほ。周りの方の寛大さのおかげですわ。ねえ、美玲?」「ええ。本当に、勉強になることばかりです」(……一体、何が始まるやら…)怜は席に着き、とりとめのない話題を振る。「こちらのお店は……」「英絵さんのご紹介だ」「蘇我の身内の集まりに使いますのよ。小ぢんまりしていて、アットホームな雰囲気でしょう?気に入っていただけると良いのだけれど」(……300人規模の宴会ができる会員制の店だが?)「ええ、素晴らしいですね」英絵は嬉しそうに目を細めた。「まあ、良かった!このお店は、フカヒレとアワビの佛跳牆が美味しいんですよ。美玲も昔から好きで、ねえ、美玲?」「ふふ、英絵伯母様、恥ずかしいですわ」怜は静かにグラスを傾けながら、内心でため息をついた。表面的には完璧に社交辞令を交わしているが、どこか気怠い。次郎が明るく笑った。「佛跳牆かー。やっぱり人参は入ってるの?」美玲は穏やかに答えた。「ええ。ですが、次郎様は人参アレルギーと伝えております」「ありがとう!助かるよ!昔から苦手なんだよ、人参」前菜が運ばれてくる。英絵が優雅に言った。「人参が苦手、というのは初耳でしたわ」「はは、お恥ずかしい。うさぎに生まれなくて、本当に良かったよ。そういえば、美玲さんはペット飼ってる?犬派?猫派?」「私は犬も猫も好きなのですが、子供の頃から実家で保護犬
「白石さんは、システム関係のお仕事なんですよね?」ポテトサラダを口に運びながら、凛は尋ねる。「…システム開発って、未経験でも出来ますか?」凛は意を決して切り込んだ。「一条さん…」白石は察した。凛が就職活動をしているのは知っている。そして…神崎家を追われた者が、この雲城市で職を得るのは、容易で無いことも。(力になりたい…)初めて出会ったあの日、思わず口を突いた言葉に偽りは無かった。今も同じ気持ちである。しかし…「…正直に言うと、難しいかもしれない」気休めを言うのは不誠実だと感じていた。白石の表情が曇る。声もしゅんとしていた。「お、教えてくださって、ありがとうございます!」凛は沈んだ空気を打ち消すように、明るく言った。「白石さんは、大学で情報処理を専攻していたんですよね。高い専門性が求められると知りながら、申し訳ないです!」(…問題はそれだけではない…)白石も凛も、喉に引っかっている言葉を、チキンカツと共に飲み込んだ。「…一条さんは、前の会社以外に職歴はないの?」「学生時代、引っ越し屋のアルバイトをしていました」「引っ越し??」華奢な凛の姿からは想像が付かない。「はい!家具を運ぶのは全力外だったんですが、お皿を梱包したり、お洋服を梱包したり…意外と出来ることはあるんですよ」凛は生き生きと話した。「…一条さん、本当に仕事熱心なんだね」白石は心から敬意を表した。凛は耳を赤く染める。「ありがとうございます。引っ越し屋は、大学の先輩が企業してやっていたんです。今も…やっていて…シェアを伸ばして…」凛は、ハッとした。白石も頷く。「…電話してみます、先輩に!」***神崎家の屋敷は、高台にあった。ホールからは雲城市の夜景を一望できる。その屋敷の書斎に、神崎怜は佇んでいた。「まだ脅迫は続いているんだろ?垂水、見せろ」「…はい、こちらでございます」黒い封筒に入った手紙が、夥しい量、届いていた。「…黒い封筒か。あからさまだな、黒蛇会は」「牽制を狙ってのことでございましょう」怜は1通1通、目を通す。「…新規事業から手を引け、というところか」「…趣旨はそのようです」「は!くだらんな」「しかし、ご用心くださいませ」「…何をだ?脅迫に屈しては、何も成し遂げられないぞ?」「本懐を成し遂げるための、ご用心でござ
「…意外と人を大切にする人ではあったのよね、神崎怜は」凛は鶏肉を揚げながら呟いた。結婚式から2週間。新しい生活にも慣れて来ていた。時計を見る。時刻は18時30分。「あと、30分…ポテトサラダでも作ろうかな」連絡が無ければ19時に夕ご飯を一緒に食べる。それが白石と凛のルーティンになっていた。「ーーメシ友」そう。二人はメシ友だった。恋愛関係はなく、ただ1日の終わりを、食事を共にして締めくくる関係。「便利な世の中よね。恋愛なんて、要らないんじゃないかしら」一緒に食事をして、他愛ない話をして、「また明日」と言う。それだけで十分楽しい。少なくとも今の凛には、恋愛よりずっと現実的だった。19時。404号室を訪ねる。「こんばんは。一条さん」部屋の明かりがこぼれ、白石が明るい声で迎えた。「おじゃまします」凛は部屋に上がると、ダイニングテーブルに持参した惣菜を置き、洗面台に向かった。間取りはすっかり把握していた。「え、これ、チキンカツ?!」白石の声が弾む。「そうですよー!」凛は洗面台から答えた。「うわー!美味しそう!じゃあさ、ちょっと待っててよ」凛がダイニングキッチンに顔を出すと、白石は、キャベツを取り出したところであった。「ふふふ。実は、オレ、キャベツの千切りだけは得意なんだ」白石がはにかむ。木漏れ日のような笑顔が溢れた。「へー!羨ましいです!」「…ごめん、自分でハードル上げすぎたかも。まあ、見てて」キャベツをストンと切り割ると、柔らかい方からスッスッスッと包丁で細かく切っていく。まくった袖から覗く腕は、細身ながら逞しい。「すごい、レストランみたい…」白石はどんどんスピードを上げる。トントントントンとまな板を叩く音が心地よい。あっという間に、山盛りの千切りが出来上がった。「レモン汁とサッと和えると、チキンカツによく合うと思うんだ。残りはコールスローにして、明日食べよう」「わー、本当に美味しそう!」「お腹空いたよねー。食べよう、食べよう!」2人は和気藹々と、手際よく食卓を整えて行った。* * *「白石さんは、システム関係のお仕事なんですよね?」ポテトサラダを口に運びながら、凛は尋ねる。「…システム開発って、未経験でも出来ますか?」凛は意を決して切り込んだ。
ベージュのパンプスは、変わらず優美な曲線を描いていた。(こんなに綺麗な靴、なんだか烏滸がましいわ・・・)凛は耳を赤らめながら指先を入れる。ソールは吸い付くように足裏に馴染んだ。「このような服装を予定しております」凛は説明しながら椅子から立ち上がる。(私じゃないみたいーー)鏡の中には、優雅に佇む自分の姿があった。怜は腕を組んだまま黙っていた。ノースリーブから覗く白い肩に、怜の視線が一瞬だけ止まる。「……」「何か、おかしいですか?」「……いや」(目に毒だな)怜は凛から視線を外した。「……寒くないか?」「え?」「会場は冷房が強い」それ以上何も言わなかった。凛は怜のチェックが無事に終わったことに安堵した。(神崎役員は本当に仕事熱心な人なのね)凛の口元から笑みがこぼれる。服装のせいか、いつもより少し堂々と、大胆になっている……しかし、そんな自分が嫌ではなかった。立ち姿をさらに確認してもらおうと、足を踏み出す。一歩、二歩。歩み始めた瞬間ーー「あ!」ヒールが揺れ、凛はバランスを崩した。そしてーー「危ない!」怜は鞄を投げ出し、駆け寄った。遠くでドサリと音がする。鞄が地面に付いた音であり、怜が膝を付いて凛を支えた音でもあった。(え……あれ……??)凛は、怜の腕の中にいた。ドッドッと早く脈打つ心臓の音が重なる。薄い肩を抱く腕は、力強く、温かかった。「はあ…良かった」怜は深くため息を吐き、凛を椅子に腰掛けさせた。「ケガは?」「だ、大丈夫です……」凛は赤面して項垂れた。恥ずかしくて、一刻も早く帰りたかった。怜はスッと立ち上がると、視線を垂水に向けた。「歩けない靴では困るな」怜は当然のように言った。「それから、ジャケットも。彼女はプロフェッショナルだ。男がスーツなら、彼女もそれに見合う格好をするべきだろう」店内は静まり返った。凛だけが、なぜ自分のためにそこまでしてくれるのか、分からなかった。けれど、不思議と居心地は悪くない。神崎怜は、凛にとってーー
「一条様、間もなく、神崎が到着いたします」垂水が告げて間もなく、店内はざわめき立った。上品な足音が慌ただしく行き交う。そして——1つの足音が、真っ直ぐこちらに向かっていた。「こちらでございます」店員に案内され、足音はドレスルームの入り口で止まった。中に入ってくる気配はない。(え、え、どういうこと——!?)凛だけが状況を理解していなかった。「ふ……自分から入るのは、気恥ずかしいのでしょう」垂水は柔らかく笑う。「お待ちしておりました、怜様」そう言って、扉を開いた。店内の人々は、自然と左右に分かれた。誰も命じていない。それでも、一人の男が歩くためだけに、空間ができていた。そこに、神崎怜が立っていた。「どうぞこちらへ」垂水は怜を奥へと案内する。「展示会場に合わせて、シンプルながら華やかなワンピースをお召しいただく予定です。 いかがですか?」手を差し示した先には——淡いピンクのドレスを着た、凛がいた。(え……?)凛は引き寄せられるように、怜を見つめた。怜は驚いたように、凛を見つめ返す。2人の視線が絡る。ドレスルーム内は、一瞬で静寂に包まれた。(……見ていらっしゃる……私のことを……)凛は困惑した。今日は分からないことばかりだ。事業発表会の打ち合わせだと思ったら百貨店に連れてこられ、ドレスアップをさせられ、そして今、神崎怜が目の前にいる。視線はとても穏やかだった。ただ、少し、驚いたようだった。(なぜかしら?)凛は視線を落とした。すると——目に入ったのは、いつもの自分のフラットシューズだった。「あ!こ、これは……!!」凛は慌てた。「靴は、当日はベージュのパンプスを合わせていただいておりまして! ちょぉっと自分の靴を履いているだけでございます!!」《ちょぉっと》の部分で声が裏返る。凛は、今なら、神崎怜の前で語尾を噛んでしまう事業部長の気持ちも、バネ玩具のように首を縦に振り続けていた上司の気持ちも、よく分かった。「……」神崎怜は黙っていた。ドレスルーム内は、再び静寂に包まれる。「履いてみろ」「え?」「お靴でございますね。ご用意いただけますか?」垂水は店員に指示を出す。店員はすかさずパンプスを持って来た。怜は、何も言わない。しかし、その視線だけは、凛の足元から離れなかった。







